列車のゴトンゴトンの音がゆっくりになり,町の中に入りそうな気配になったと思ったらまもなく停車したので着いたらしい。駅は出たけれども,どちらに行ったらいいのか分からない。中心街への方向の見当を付けてぶらぶら歩き始める。驚くような深い森の町の光景でもないので,感激もないまましばらく歩くと繁華街ではなく,広大な緑地が眼前に広がった。
有名な町らしいということだけで降り立った。町の知識は皆無なので,ただただ緑地をぐるぐる廻っただけ。歩きつかれて,また駅に戻り,次の列車に乗った。
なので,バーデン・バーデンといえば,駅から歩いた小川沿いの道と平らな広い緑地の記憶しかなかった。
また,パリからイタリアに行くのに,なぜバーデン・バーデンに立ち寄ったのかも覚えていない。おそらく南ドイツの楽器職人の町として知られるミッテンヴァルトに向かう途中,列車の時刻表にバーデン・バーデンが載っていただけのことだけだろう。ヒッチをしたり,列車に乗ったりの,予定も計画もない旅だったから。
その後,ドイツに住むようになり,バーデン・バーデンに写真家の方を迎えに行くことになったことがある。待ち合わせ場所のバーデン・バーデン駅を降りても記憶が蘇らない。不思議に思っていると,鉄道駅は街中から移され,列車はバーデン・バーデンの町には入らないようになったことを聞いて納得。
今では,車でバーデン・バーデンに行く人は,アウトバーンから市内に向かう道が一直線のことに気づくはずだ。この一直線が,1977年まで市内にあったバーデン・バーデン駅に続いていた線路跡。
線路があった1本の道の土地を利用できるようになってもそれほど大きな利点だとは思えないし,列車の騒音が住民に迷惑だったり,町の空気を汚していたことはあまり考えられない。
行き止まり式になっているバーデン・バーデン駅へは,町に入り込む形になるので,スイス・フランクフルト間を結ぶ主要線上でバーデン・バーデン駅に停車すると10~20分ほどのロス時間が出てしまう問題を解決したかったのだろう。
空気汚染ならば車のほうがひどいはずなのに,と思っていたら,バーデン・バーデンをただの通過点としてシュヴァルツヴァルト(黒い森)方面に通り抜ける交通量が多いことが問題になっているらしく,市内を抜ける2.5 kmのトンネルが1989年に建設され,2012年にはさらに伸びたので,バーデン・バーデン市内の交通量や騒音は大きく改善されることになった。
それにしても,市内にあった駅を移転させたもうひとつの理由は,「列車で来るのは貧乏人ぐらいだから,どうせ金も大して落とさないし・・」と勘ぐるのは,また貧乏人の僻みだろうか。
いずれにせよ,移転後,使い道が決まらぬまま長らく残されていた旧バーデン・バーデン駅(Alter Bahnhof)の駅舎は,1998年に建設された祝祭劇場(フェストシュピールハウス/Festspielhaus)の玄関ホールとして新たに生まれ変わった。なので,往年の列車の切符売り場でコンサートなどの入場券を買うという,ノスタルジーと面白さを同時に味わえるようになった。もちろん,鉄道駅には欠かせない,壁面の大きな時計はそのまま時を刻み続けている。
因みにこの祝祭劇場は,ドイツ最大且つ音響もヨーロッパでトップクラスという評判だけれども,ドイツ最大という感じも超優れた音響という感じもはっきり言って抱かない。また,モダンな建築様式なので東京にあっても不思議ではないようなコンサートホールだ。
しかし,これは単に僕のような素人の意見であって,ときどき見聞きするフェストシュピールハウスの評価は,メディアからもプロの音楽家からも極めて高い。
オペラ,クラッシック音楽,舞踏,演劇など,ヨーロッパで鑑賞するならば,イタリアやフランスに数世紀前からあるような厳かな建築物,またはアールデコやユーゲント様式の,天井桟敷付きのホールの中で年季のある木と高級布に包まれた座席に埋まったほうが遥かに素晴らしい夢の時間を過ごせる,と個人的に思っただけに過ぎない。
そういう意味では,バーデン・バーデン市内のクアハウスの隣りにある,まさに劇場が名称になっているテアターは,こじんまりした厳かな古い建築物。
もし,滞在中にここで何か催し物があったらお奨めだ。
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