バーデン・バーデンの夏と賭博者

ロシアの裕福層がヨーロッパの各地の一等地で休暇を過ごしていたという記述を目にすることは多いけれども,ロシア人に限らず東欧からソ連や中国までの共産圏の人たちをヨーロッパで見ることは長らくなかった。

鉄のカーテンとはよく言ったもので,戦争は起こっていないのに冷戦という言葉が示すように日本を含む自由圏の国民のパスポートが通用するのは社会主義共産主義を除いた世界のような感じだった。

それがソ連の崩壊を境に一気に変わる。ロシアの人たちにとって西ヨーロッパは物価が高いから旅行などで訪れる人は少ないだろうと考えていたのは,大きな間違いだった。どどっと,それもスイスのサンモーリッツや南仏コートダジュールの高級リゾートなどにロシア人が大勢押し寄せた。ヨーロッパの裕福層よりもワンレベル上の金使いの様相だったから,ロシアの金持ちは只者ではない。

一方では日本から南米に移住した人たちのように,新天地を求めて世界に出たロシア人も多かったに違いない。考えてみれば当然だけれども,アメリカにもロシア人のコミュニティーがあるんだなということを知ったのは,映画「ディアハンター」だった。

ru kirche 3このバーデン・バーデンも,休暇先というだけではなく,不動産がロシア人にどんどん買われていった。旧ソ連のシュワルナゼ外務大臣もバーデン・バーデンに邸宅を購入したらしいけれども,その後どうなったのだろう。
どうやら,西ヨーロッパにはロシア帝国の時代に繋がりが合った多くの都市があり,そのコネを頼って百年以上経った今,新たにロシア人がそれらの都市に行くようだ。
ロシア皇帝もたびたび訪れていたバーデン・バーデン。黄金の玉ねぎ型の屋根がまぶしいロシア正教の教会は,教会というよりも礼拝堂と呼んだようが良いような,狭くて質素なホールだけだけれども,ロシア人住民たちにとっては郷土を感じる憩いの場だろう。

カラカラ浴場裏に続く公園にドストエフスキーが裸足で立っている銅像がある。

なぜ裸足で,というのはドストエフスキーの読者ならご存知だろう。
知名度の高い文豪とはいえ,もともと裕福でもなかったドストエフスキーは一文無しになり,愛人にも逃げられたイメージで作られた像であることは明らか。

1863年に初めてバーデン・バーデンを訪れたドストエフスキー。カジノを見つけ,すぐに気に入ったらしい。「ここでは1万フランを稼いだ後も,まだ楽しめる」
しかし,一緒にバーデン・バーデンに来た愛人のポリーナ・スースロワにも愛想をつかされて去られ,結局持ち金が底をつきロシアに帰る。

そこで出版社に頼み込んで,金を稼ぐために書いたのが「賭博者」。ところがなんと,この小説の清書を行った若い速記タイピストのアンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナと共に1867年,再びバーデン・バーデンにやって来る。
新婚旅行として,また債権者からの逃避旅行として。

現在,ドストエフスキーハウスとなっているベーダー通り2番地(Bäderstraße 2)の,当時は屋根の低い2階建てだった質素なアパートに滞在する2人。ドストエフスキーは再びカジノに入り浸りになり,最終的にまた大損。
逃げるようにスイス,イタリアへ向かう2人。ドストエフスキーはようやく心を入れ替えたようで,家族のためにも責任をとることを決心し,「白痴」「罪と罰」を完成。バーデン・バーデンなくしてドストエフスキーの傑作は生まれなかったと考えられないこともない。

カジノまで歩いて数分。病的なギャンブル依存症だったドストエフスキー時代の街の雰囲気はないので想像を巡らすしかない。

「私はすべてを失った。すべてを! まさに全てを! おお、私の天使よ、悲しまないで。」

 

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