ブラームスとクララ・シューマン

「えっ!ブラームスハウス? ブラームスがバーデン・バーデンに居たの? クララ・シューマンも? それじゃぁ,まず見なきゃ。」
日本から身内がバーデン・バーデンまで足を運んでくれたときの第一声だった。

バーデン・バーデンという町が,有名無名のクラシック音楽家たちのみならず,ひいてはクラシック音楽ファンの心を惹きつけるのは,クラシック音楽に無知な僕でも何となく分かる。

散歩がてらブラームスハウスに行ったので説明文を書こうと思い,少し調べるとシューマンという名前が出てきた。そして,ロベルト・シューマン(1810-1856)はバーデン・バーデンを気に入っていたと書かれていたけれども,訪問したのは3回だけで滞在日数もわずか。初回は1829年7月5日と6日,翌年も8月5日と6日に大学の友人たちと共に遊びに来て,楽しい日々を過ごしたらしい。3回目は1851年7月23日,クララ・シューマン(1819-1896)と一緒にスイス旅行の途中に寄って丸一日を過ごしたと記されている。後のクララ・シューマンのデュッセルドルフからの転居を思えば,このバーデン・バーデンがそれぞれに強い印象を残した街であったことは間違いない。

ちょうどそのころ,19世紀初期からバーデン・バーデンはシックな避暑地としてヨーロッパで有名になりつつあった。ベルエポックやユーゲント様式に先駆けて,モダンで華麗な雰囲気があったのだろう。
フランスでプロテスタントへの迫害が始まり,国境を越えて逃げてきた多くのユグノーたちが気に入ってバーデン・バーデンに居住を構えたとも記されている。彼らによってフランス人好みの町に徐々に変わっていったのかもしれない。

訪問者の交流の場所は,その名も社交場(Conversationshaus)。玄関を入ると厳かな階段が中央にある,典型的なヨーロッパのクラシックな宴会場。室内音楽の演奏会にほどよい大きさのホール,(社交)ダンス場,カジノも入っている現クアハウス。欧州各地からやってくる多くの文化人や知識人たちが,昼間は町中の緑地の散歩または深い森へのトレッキング,陽が暮れると,それこそエトランジェとのConversationを楽しんだことがうかがえる。

ところで,ロベルト・シューマンとクララ・ヴィークがようやく結婚できたのは1840年。2人で協力した音楽制作を行う喜びの中の不安定な生活は,ロベルト・シューマンがデュッセルドルフ市の音楽監督という職を得て大きく変わる。1849年に家族と共にデュッセルドルフ市に転居。クララ・シューマンも伴奏者として働き,新たな音楽活動に期待を寄せたが,演奏家たちの規律の無さや努力不足に失望するロベルト・シューマン。なんとか仕事やツアーをこなしながらも7人目の子供の誕生,数回の引っ越し,ロベルト・シューマンの続く病気など,不安な年月が流れ,ついに音楽監督の業務を退くことを勧められる。そしてよく知られる,ライン川に身を投げる事件が発生。その後,ロベルト・シューマンの希望もあってボン郊外の精神医療施設に入院。見舞いを控えるように言われていたクララ・シューマンがロベルト・シューマンにようやく会えたのは1856年7月末,亡くなる2日前のことだった。わずか16年の波乱の結婚生活。そのとき身ごもっていたクララ・シューマンは8人目の子を産む。

子供たちは寄宿舎に送られたりして彼女の元を離れ,クララはロベルトの死後,2人の子供を連れて離婚した母親が住んでいるベルリンに引っ越すけれども,居心地はあまりよくなかったらしく,1862年にバーデン・バーデンに転居することを決心する。
バーデン・バーデンは,ロベルト・シューマンの名残ある町だったけれども,新たな居住地となるきっかけを作ったのは(おそらく)クララの人生で重要な3人目の男性。

ロベルト・シューマンが亡くなる3年前,クララ・シューマンは,父,そしてロベルトに続く,その3人目の男性に出会っている。ヨハネス・ブラームス(1833-1897)だ。
ブラームスはロベルト・シューマンを訪ね,尊敬の意を示すと共に自作の音楽作品の評価を請う。ロベルトもクララもブラームスの作品に感銘を受け,以来緊密な関係を結び,シューマン宅に住み込んだ時期もある。
時期にブラームスがクララに恋心を抱き始めていることは明らかになったが,ロベルトがどのような感情を抱いていたのかについては分からない。

いずれにしても,ヨハネス・ブラームスとクララ・シューマンの友情と愛情は取り交わされた手紙に記されているけれども,ロベルトが亡くなった1856年,2人はスイスに一緒に旅行に出かけ,そこで愛人としての関係は終えることを話し合っている。
しかし,2人の友情関係は一生続いたことは広く知られている。

ご存じのようにドイツの都市は2回の大戦でほぼ壊滅して,19世紀のドイツの建築物はほとんど残っていないので100年前の様子を想像することすら,それこそ大きな想像力が必要だ。シューマン夫妻が住んでいたデュッセルドルフも,旧市街の一角にほんのわずかな瓦礫が残っているだけなので,町の昔の面影はゼロに等しい。デュッセルドルフに限らないけれども,諸都市の戦前の様子を知りたい人は,ほとんどの町にある郷土博物館をぜひ訪れてほしい。

そういう意味で,バーデン・バーデンは幸運だった。すでに戦時中から,戦後はフランス軍管理の統括本部の拠点となることが決められていたので連合国は爆撃を行っていない。したがって,街並みはクララ・シューマンやブラームスをはじめとする多くの音楽家や文化人がいたころの1-2世紀前とあまり変わっていないので,当時の雰囲気は十分想像できるはずだ。

1862年にバーデン・バーデンに転居したクララ・シューマンは,友人の伝手で一軒家を購入(Hauptstraße 8番地)。10年間ここに住んでいる。欧州各地を廻る演奏旅行で多忙だったクララ・シューマンだったけれども,休みの日々や夏の休暇はいつも,(子供8人の内)7人の子供たちと一緒に過ごしたと記されている。当時は平屋だったようだけれども,その後人手にわたり増築されている。

筆者は最初のころは,ブラームスが現在ブラームスハウスとなっている賃貸アパートを見つけるまで度々滞在していたといわれるホテル・ベーレン(現在は老人ホーム)しか知らなかった。クララ・シューマンが住んでいたことも最近知った。

後にクララ・シューマンが購入した家を見たとき「アレッ?」と思った。目と鼻の先にホテル・ベーレンがあるのだ。ということは・・・,ブラームスがクララ・シューマンを追ってバーデン・バーデンに来たという記述はあったけれども,それだけでなく,彼女の家に最も近い宿をとったに違いない。その後,ブラームスはいつものような短期滞在ではなく,居住するつもりでアパートを探し始め,偶然にも近くに理想的な一軒家が見つかり,彼女にも森にも近いので幸福感に包まれたであろうことは十分察することができる。
「物件の1件目の内見だったけれども最高だよ。すぐに決めた。素晴らしく快適だ。丘の上で,山々も一望できるし,リヒテンタールからバーデンに行く道もすぐだ。」
ブラームスが友人に宛て手紙にはクララのことは書かれていないけれども,「クララの家へもすぐだ」が本当は最もうれしかったはずだ。

それ以前から,コンサートのツアー旅行で家にいることが少なく,結婚後もおそらく家族と一緒にいる短い時期も音楽中心で子供たちの面倒をみる時間が少なかったせいか「薄情な母親」というニックネームまで付けられていたクララ・シューマンだが,日記には子供たちと過ごす時間に恋焦がれていたことも書かれているので,バーデン・バーデンの庭付き小川付き一軒家で幸福な時を過ごしたことは間違いない。

また,母親失格,女性失格のようなレッテル貼りは,女性の役割は家事と育児というのが常識だった時代だから通用したとも云えるだろう。日本も男性社会だけれども,ドイツでは夫婦共働きが許されたのは1977年。それまでは,「女性は良妻賢母であるべし」という道徳は,ドイツ国民に共有されていた価値観だった。女性が働くことができるのは家事・育児に支障を起こすことがなく,夫の許可を得られた場合に限られ,それが法で定められていたので,19世紀の中旬ならば推して知るべしだろう。

そういう意味で,クララ・シューマンは現在では優れた音楽家というだけでなく,職業婦人としての人生を貫いた最初の女性解放者のひとりとして認められている。

さて,バーデン・バーデンの町から歩いてブラームスハウスに行く途中,クララ・シューマンの往年の住まいを通ってゆけば,当時の生活を思い浮かべられると共に,おそらくブラームスもクララがバーデン・バーデンにいるときは毎日のように歩いてきたであろう道を散策できる。
道と云っても,リヒテンターラー緑園内の歩道。往年のクララ・シューマン宅の近くには東屋もあり,中に人が座っている光景など見たこともないので,散歩の途中のちょうど良い休憩j所になるはずだ。

クララ・シューマンの家を知らないころ,近くを通るたびに,リヒテンターラー公園の脇を流れる小川沿いにある小さな家々に憧れた。後に数軒しかない恵まれた家の一軒がクララ・シューマの家であったことを知った。道路側から見ると変哲のない質素な平屋だけれども,裏に廻ると日本式庭園も羨むような静けさに包まれた住まいに一変する。小さな庭と前を流れるオース川と緑地まで独り占めなのだ。
黒い森から流れてくるオース川はバーデン・バーデンの町に入ると川幅は広がるけれども(それでも5メートルぐらい),この辺りはまだ幅2メートルほどの小川で水はいつも澄んでいる。

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毎年のように夏にやって来ていたブラームスもクララ・シューマン一家と共にバーデン・バーデン(リヒテンタール地区)の住民となった。現在ブラームスハウス(Maximilianstraße 85番地)として保存されている一軒家とクララの家との往復は,おそらく道路ではなくリヒテンタール修道院から緑地のみを通ったに違いない。

バーデン・バーデンの市街からは2キロ以上離れている。
一生,質素な暮らしをしていたといわれるブラームスだけに,華やかで贅沢な雰囲気のバーデン・バーデンの中心よりも,少し離れた森に近い辺りのほうが幸福だったのかもしれない。
自然が好きなブラームスは,毎日のように夜明け前から山の中へ歩いて行ったと記されている。

Conversationshaus(現クアハウス)で演奏するときは,自宅の庭のような小川の橋を渡り,前の公園を歩いてゆけば,道路を全く通ることなしに会場の行き来ができることになる。こんな環境に恵まれた人は世界広しといえども,クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスだけだろう。

 


ブラームスハウスとリヒテンターラー地区

 

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