歩き続けて

歩き続けて

下荒田町(鹿児島市)を久しぶりにひょんなことから訪れることになった。叔母さんと昼食を一緒にとったら,食後,「ちょっと散歩しましょう」とどんどん歩き始めるのだ。

昔から痩せ型だった叔母さんは80歳をとっくに過ぎているはずだ。東京生まれだからかどうか,早口と言うだけでなく,歩き方も速い。屋内ではいつも裸足でいるのが健康法だという。病気知らずのはずが,その後,胃癌になり,ほどなくして亡くなったという知らせが届いた。
そして,叔母さんの子,物心付いたころから一緒に遊んでいた僕と同じ年の従兄弟の急死の報も続いた。

こどものころは大人はそこにいるだけの存在なので,ちょっと先に生まれただけの自分と同じ人間だという感覚も関心も持たない。
多くの日本人と同じとはいえ,叔母さんの人生も波乱に満ちていたのに,興味を持って尋ねたことなど結局一度もなかった。
逃げるように離れた満州からの引き揚げ船から,亡くなった長女を海に葬らざるを得なかった光景を思い浮かべるだけでも察するに余りある。

叔母さんは,ここにはあれがあったのにねぇとか,道端の光景を指差しながら,プロの観光ガイド顔負けの下荒田サイトシーイングを開始した。
小さいころは毎日のように50メートルぐらい先の海岸に行ったけれども,もうそこに海はなかった。遠くにかすかに海岸があることが想像できたけれども海は見えなかった。
小学生のころ,貸しボート屋のボートで鹿大の船に近づくと,ときどき上がれと言われ,綱を降ろしてくれた。そして食事までご馳走になった。ご馳走といっても子供には馬鹿でかいどんぶりに盛られた大盛りご飯に味噌汁と漬物だったと思う。

007のロケで一人乗りロケットが空に飛んだ天保山のあたりは,広場はなかったけれどもジェームス・ボンドの面影は残っていた。

叔母さんは,「ほら変わったでしょう」と僕が生まれ育った鹿大農学部の裏門前の家を指しながら,さらに歩き続けた。まるで,僕が小さいころ毎日通った道を知っているかのように八幡小学校へ向かった。あのころ広く思えた道も,ガリバーが巨人として帰って来たかのような模型の細い道だった。でも,裸足の裏にコールタールがべっとり付いた暑い夏の日の,熱く柔らかい感触が一瞬蘇った。

数個の小さな野いちごがいつもあった道脇を探したけれども,当然ながら分からなかった。
鶴田くんの家はあった。と思ったのもつかのま,そんな気がしただけだった。
小学校はずっと一緒で,小学校に向かう10軒ほど先に住んでいた彼はほぼ毎朝,逆方向の僕の家まで迎えに来て待ってくれた。結局,「もう遅刻するから先に行くからね」と言うこともたびたび。反対方向まで来てくれて,待たせることの繰り返し。僕ののろさと遅刻常習は一生続くことになるけれども,鶴田くんへの自責の念も残ったままだ。

僕の家の数軒先には天理教の寺院があった。でもなぜか一度も足を踏み入れたことはない。お寺というのはなぜか近づきがたい,遠い知らない世界だった。

子供たちの良い遊び場だったけれども,大人たちはゴルフの練習場に利用していた,家の裏は何もない広い原っぱ。いつの日か多目的に用いられる体育館が建てられた。夜暗くなるとアベックが裏の隅っこに度々やって来るようになったので,僕は部屋の窓から身を潜めて男女の抱擁ぶりを覗き見ていた。

海岸沿いに並んでいた,雨漏りするトタン屋根だけのみすぼらしい小屋もいつのまにか消え始めた。社会は急速に豊かになっていたかもしれないけれども,子どもにそんな意識などない。ただ,皇太子殿下と美智子妃が乗ったオープンカーを迎えるために小学校の先生生徒総出で国旗を振り続けたころから,世の中はモノクロからカラーに変わり始めたようだ。

近くに馬鹿おじさんと呼ばれる人が住んでいた。よく会うのだけれどもどこに住んでいたのかはっきりは知らないし,話したことも声をかけられたこともない。ただ,ちょっと変わった人というだけのことだったかもしれない。それにしても今思えば,馬鹿おじさんなんて失礼な話だ。誰かが言った軽蔑的な言葉をそのままその人に投げ続け,何もわからぬまま嘲笑うなど,子供はなんと残酷なのだろうと思う。しかし,本来ならば,大人がしっかりと子供を諭すべきなのだろう。

ところで,叔母さんのゆくままに付いていった下荒田町の道。日が暮れてからときどき,道路向きの屋外に置かれているテレビを見に行った電気屋さんはなかったけれども,父と通ったお風呂屋さんは立派でモダンな銭湯になってまだ健在だった。

僕が通った八幡小学校は都会の学校のように立派になって見違えるほどだった。僕らがいたころは木造建築で校庭も土。高学年になったころから少しづつ鉄筋コンクリートの校舎が作られ始めていた。ドアも無く,灰色の浅黒いセメントで塗り固められたような屋外便所は,消毒液の臭いがいつも強烈だった。それよりも,男女共同だったのは男の僕でもなぜか嫌で,いつも人気のないときを見計らって行っていた。

中学校に行き始めたころから多少は広がったけれども,長い間,家の周り百メートルぐらいだけしか知らなかった。少し先の辺りは,見知らぬ,怖い,不安な遠い世界だった。家の前も土,校庭も土,近所の道も土,従兄弟がいた東京の小学校の校庭がコンクリートなのにびっくりして,同時にとても冷たい非人間的な屋外の床だと思ったような記憶がある。

日本に限らず,欧州の都市でも,およそ人が少しでも集まって住む場所に土はないことに不思議は全然感じなくなっているけれども,考えてみると,不思議と感じないことが本当はおかしいのではないかと思う。

 

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