星なしホテル

「星なしホテルなら安いよ」とモダンダンサーの石井さんに聞いたので,星のないホテルの看板を探しながらカルチェラタンの道を歩いた。

 フランスのホテルはすべて1つ星から4つ星までの格付けで分かれていると思い込んでいたので,星がないホテルというものがあることさえ僕は知らなかった。

大分後になって聞いたところによると,星がないホテルは宿としての最低条件も満たしていないペンションのような安ホテルだけではなく,星で格付けされることを拒否するリッツのような超高級ホテルもあるらしい。また,東欧南欧諸国では5つ星ホテルがあるのでフランスにもあると思って,パリの5つ星ホテルの滞在を希望する人もいた。

フランスに限らず,安い宿は,入り口が狭く,長い廊下を入った奥,つまり中庭のような場所に出てからの別棟だったり,狭く長い入り口の廊下の先にあったりする。数軒廻って見つけたサンジャック通りの星なしホテルは後者のタイプだった。大柄の気のよい叔母さんが取り仕切っているようだったけれども,正式には夫婦経営,ときどき綺麗な娘さんたちが手伝っていることもあった。ご主人はいるけれども,いつも駄弁っている。駅前シリーズの森繁久弥もそんな感じだったから,まぁ世間はどこも似たようなものかもしれない。

できるだけ安い部屋を,と頼んだのでシャワーもトイレもない。

1日20フランもしなかったけれども長期滞在でさらに安くしてもらえた。

階段の途中の踊り場,といってもとても狭い一角にトイレはあった。アラブ式だ。日本のようにしゃがむスタイルだけれども,両足を置く場所だけが数センチ高く,用を済まして水を流すために垂れている紐をひっぱるときは,気を引き締めておかないと油断すると足に水がかかってしまうので,いつも緊張する。

朝食は1階(日本流の2階)のレセプション兼リビングルーム兼子供の勉強部屋兼ミーティングルーム兼の食堂,といっても小さなテーブルが2~3卓置いてある部屋で,毎日カフェオーレとバゲットだった。大きなコーヒーカップで出されたけれども,家族の人たちが飲んでいた大きなお椀のほうが本当は良かった。

いつかフランス人のように,お湯は鍋で沸かし,お椀でコーヒーを飲もう。

電話が来ると,叔母さんがムッシュウ・アガター!テレーフォーン!と大声で呼んでくれる。僕の名前はナガタなのだけれども,アガタ・クリスティー(アガサ・クリスティーのフランス語呼び)で覚えちゃったから,と僕はアガタにされてしまった。

表通りに面した部屋はシャワー・トイレ付きで高いらしい。廊下の一番奥にある,洗面台とシングルベッドの横に椅子と小さな机が置いてあるだけの,狭い僕の部屋の窓からは裏庭に続く教会しか見えない。教会といっても見えるのは裏壁だけなので全体像は分からない。それでも,数百年の年季が入っているであろう教会や宿の中にいる気持ちは悪くない。教会の鐘というものがどのような音色をしているか,ここで初めて知った。

まだ薄暗い明け方のころ,竹でできたような馬鹿でかい箒を持った男たちが散水車の後に付いて歩きながら,道路にあるゴミを一気に下水道に押し流す。通り過ぎると,道路が見事に綺麗になるので,ゴミだらけだったことに改めて気づく。大きなマンホールの下水道がパリの地下に網の目のように巡らされていることを後に知った。危険物であろうが犬の糞であろうが何でも投げ込むので,毎日毎日,悪臭に満ちた莫大な汚水と汚物がパリの地下を詰まることなく流れるシステムが構築されていることになる。

もしローマ時代からの下水システムだとしたら2千年の歴史ある誇れる文明なのだけれども,現代社会に沿った廃棄方法はないものかという思いも浮かぶ。

サンジャック通りとゲイリュサック通りが交わる小さな三角地帯に一軒だけ残った八百屋の叔母さんは朝早くから道行く人に声をかけていた。バスの停留所や道路の塀にときどき職人肌のポスター張りがいるときは,立ち止まって仕事ぶりを観察だ。数メートル四方のポスターの一部にまず糊を付け,片手で支えながら,西洋のブラシ箒と同じ大きな刷毛で一気に完璧に貼り付ける。日本では都会の中心街でしか見られないセンスある超特大ポスターも圧巻ながら,一発で素早く貼り付けるフランス人の技も見事だ。

ルクセンブール公園前のクレープ屋さんの手さばきも器用だなと思っていたけれども,クレープ作りは意外と簡単なことが後に分かった。それに,材料費はほぼ無料に近いのに高すぎる。

サンドイッチも,バゲットにハム,チーズ,ゆで卵,にいずれかを挟んであるだけなのに高い。ゆで卵はホテル住まいではできないけれども,ハムやチーズなら買ってくるだけだ。ということで自分で部屋で作るようになった。いつもドゥミ(半分)バゲットを買っていたけれども,知り合った女の娘があるときパン屋さんで4分の1のバゲットを買うのを見て,4分の1でも購入できることを初めて知った。

 

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