市場のざわめきと出店のおばさんたちの呼び声につれられ窓を開ける。ルピック通り沿いにアパートを見つけたのはラッキーだった。
メトロのアベス駅までまっすぐに続く市を2階の窓から臨みながらの朝のコーヒーは格別だ。
とはいっても，ガス台で鍋で沸かしたお湯をフィルターに入れたコーヒーよりも，角のカフェのカウンターの親父に「いつものやつかい？」と聞かれて，カフェオーレとタルティン・オ・ブールがどんと置かれる朝食のほうがずっと良いし，格好良いし，フランス通のような満足感も得られるのは間違いないのだけれども，残念ながらまだ若造。新米のおのぼりさんをしばらく続けそうだ。
バゲットを買いにパン屋に向かう。クロワッサンなどでもいつか買えることを夢見ながら，きょうも一番安いバゲット，それも半分のドゥミバゲット。半分のバゲットだから半分の値段なんだけれども，考えてみると，これはとても良心的だ。
モンマルトルにもピガールにも近いせいか，ひとりで営む狭くて質素なパン屋から小奇麗で数人の売り子さんがいるパン屋まで，近所にはブーランジェリーがいくつかある。店に足を踏み入れると，焼きたてパンの心地良い香りがふわ～としたり，あまりなかったり，日によっていろいろ。それでも，頭の中で何度も繰り返しながら通じた初めての「バゲット・シィルヴプレ」以来，パン屋で手を持つ箇所だけの細い帯状の紙が巻かれたバゲットを手に店を出る，という単純な出来事の一瞬の幸福感は数年経った今でも変わらない。
ただ，une baguette が今でもときどき deux baguettes に理解されてしまうと，改めて自分のフランス語の発音に自信を失ってしまう。
市には安物の日用品や衣服などの出店もあるけれど，やはり目と興味が向くのは八百屋や食肉店。トマトを一度触ったら，血相を変えた売り子のおばさんに叱られた。「このタコが欲しい」と言ったら，「お～い，この日本人，タコを食べるんだってさ，本当かね」，と周りの人たちに大声でバカにされた。きょとんとしていると，本当は気のよいおばさんが説明してくれた。
「これはね，poulpe って言うんだよ，octopus じゃないよ」
初めて見たときは驚いた豚の頭や鼻や耳，毛を剥がれてぶらさげられているウサギたちも，市の普通の光景になった。やはり食料品は市で買うに限る。指で示し，お金を出せば普通は問題なく求められるんだけれども，それでも緊張が全くないとは言えない。特に，エピスリーと呼ばれる惣菜屋がそうだ。値段がやや高く，自分の食品知識が足りないことも理由だけれども，なぜか客層も裕福なご婦人が多い気がして，僕には敷居が高いので，ほんの数回しか行ったことはない。
料理人ではなくても，料理が好きな人たちにとっては，パリの市はわくわくした至極の時間を過ごせる一角に違いない。
僕にとっては，ときどき安いチーズを少し買う乳製品の店ぐらいだ。いつか，値段を気にせず，数種類のチーズと生牛乳を気楽に求められる身分になりたいと望みつつ，結局夢に終わってしまったけれど。
ルピック通りにあるアパートに近いメトロ駅はブランシュとアベス。行き先によって，どちらのメトロ駅から乗るか決めるので，アベス駅に向かうときはいつも市の出店を眺めながらの徒歩になる。
モンマルトルの丘に近いのでアベスのメトロ駅は深い。地下深く潜っている暗いトンネルから木造のような緑の電車がゴトゴトと音を立てると，階段とホームの間にある鉄の扉がじわじわと閉まり始める。走れば間に合うか，もうダメか，決断の瞬間だ。
夏の日は，4人掛けの木製の座席は蒸し暑いので空いていても座らず，ドアの近くで立っていることが多い。走行中にちょっと開けて風を入れながら，流れ過ぎる薄汚れた石の壁を見ているのも楽しい。
パリ再開発で最近出来上がったレアール地区やシャンゼリゼ辺りを走るメトロはモダンで，シートも柔らかく，綺麗だけれども，ドアも窓も開けることはできない。
よかった。パリは古い地区の方が何から何まで良いのだ。いつまでも取り残してくれると有り難い。
それにしても，レアール，つまり中央市場がすっぽり消えてしまった。
もう何もない。服を脱がされて，どうしようかと恥ずかしそうに迷っている巨大なコンクリート建造物の周りにぽつぽつと残っている店舗も，仲間を失ったせいか，パリの中心で生きているという活気をすっかり失ってしまった。
これからは，フランスではなく，ジャック・レモンとシャーリー・マックレーンのIrma la Douceに良きパリを求めることになるというのもちょっと皮肉な結果だ。
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