追悼ベッケンバウアー

時代の流れか,ワールドカップ裏金疑惑の残骸か,ドイツでも大ニュースとしては騒がれなかったけれども,少なくともネット上では日本のニュースでも,ベッケンバウアーの紹介も兼ね「ひとつのニュース」として載っていただけの感じだった。

golden foot beckenbauer h640しかし,ドイツといえばサッカー,そしてドイツサッカーといえばベッケンバウアー,という世界中が認める時代があった。
僕にとっても,ドイツとの最初の出会い,というか認識は,象徴としてながらもベッケンバウアーだった。ベッケンバウアーという名前どころか,ドイツサッカーも知らなかったのに。

1972年の春,ドイツ人から声をかけられ,イスタンブールの中央駅からインドまで数名の欧米人と旅を同行することになった。
トルコ,イラン,アフガニスタン,パキスタン,インド,行く先々で,子供を含む多くの人たちに声をかけられ,ドイツ人だと知るといつも歓声が上がった。
「メルセデス! ベッケンバウアー!」

アメリカ人もいたけれども,すでにその頃も帝国主義米国として嫌われていたせいか,そしてロック・ポップスもハリウッド映画も流れていなかったせいか,彼らにとって憧れの西洋はドイツ,中でもサッカーと自動車であることを認識させられた。
この道中を機に友人となったドイツ人はベッケンバウアーと同じ生粋のバイエルン人,年もわずか数年違いのサッカー好きということで,現地の人たちの反応にはいつも満足の様子だった・・・ヒットラー!ヒットラー!と言われたときを除いて。

ベッケンバウアーのプレイは見たことはない。西ドイツというか西ベルリンに居た80年代は,ベッケンバウアーはアメリカから帰って来たころで,監督になっていた。FCバイエルンなのかドイツナショナルチームの監督だったのかは知らない。1990年ごろ(?)のワールドカップでは優勝に導いたドイツナショナルチームの監督としてニュースを騒がしていたのでよく覚えているけれど。
1970年台にはドイツナショナルチームのキャプテンとしてワールドカップに優勝しているので画期的だし,もっと多くの功績があるかもしれない。

テレビで語る姿は,バイエルン方言を別にすれば,格好良い紳士。外国人が眉を顰めるドイツ人の嫌らしさと言えば,「ダメなものはダメ」という断定性や強圧的・権威的な態度だと思うけれども,ベッケンバウアーは新しいスマートさを備えていたような気がした。日本の王や長嶋を連想させる中年のスポーツマンで,周りの人たちが尊敬の眼差しで一目置いているのがよく分かった。
なぜ,カイザー(皇帝?)と呼ばれるのかについては知らないけれども,貴族の存在もすっかり消え失せた時代の高貴なドイツ人として,首相よりも尊敬と信頼を受けるに足る人物だったのかもしれない。

また,ひょっとすると,いやひょっとしなくても,今思い起こしてみると当時のドイツは,人気スポーツの王者としても世界に知られていたに違いない。

テニスのボーリス・ベッカーとシュテフィ・グラス,フォーミュラー・ワンのミヒャエル・シューマッハー,フィギアスケートのカタリナ・ヴィット(東ドイツ)など。
ミヒャエル・シューマッハーはシーズン中は毎日曜日のレース,ボーリス・ベッカーとシュテフィ・グラスもほぼ毎日のようにテレビの複数のチャンネルで長時間プレイしていた。

ところが,全員が,一世風靡した全員が突然,メディアからも世間の話題からも消えた。歳を取っての引退というだけではない。ボーリス・ベッカーは数々の金がらみの事件やスキャンダル,シュテフィ・グラスはトレーナーである父親の脱税事件の陰でアンドレ・アガシとの結婚に伴う渡米。
しかし,ミヒャエル・シューマッハーは悲劇,フランツ・ベッケンバウアーは不運と云える。一命をとりとめたとはいえ,スキー事故による重度の身体障害,そしてワールドカップ賄賂疑惑を伴った急激な病弱化だ。

本来ならば,そして国葬ならぬ州葬というのがあるのであれば,バイエルン州の歴史に残るひとりとして刻まれても良い人物だったと思う。

 

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