なんとなくインターネットでオンライン新聞を読むのが日課になってしまいました。とは言っても,別に大きな興味があるわけではなく,なんとなく,という感じでサイトを開いてしまうのです。最近,ジャニーズが毎日書かれていたと思ったら,松本人志という人に代わっていました。

私は松本人志という人の名前は知らないし,聞いたこともありません。
でも大ニュースらしいので,まずはどんなスキャンダル事件なのか,内容を知りたいと思ったのですが,なかなか分かりませんでした。

まぁやっと分かったのですが,別に興味もないのでそれ以上探すことはしません。それでも毎日第一面に,そして夜,テレビ番組がおもしろくないときに切り替えるYoutubeでも出て来るのでずるずると多少見てしまいます。

松本さんの事件に限りませんが,喧々諤々の意見が多方面から寄せられるなか,私の心の中で再び理解できない課題が挙がってきました。

男社会の日本や芸人の世界の問題もさることながら,それよりも「罪」,つまり「罪」の意識の問題です。
野次馬だけではなく,真面目に意見を述べている識者もいるのに,「罪」が出て来ない。
なぜか不思議です。
Youtubeではインテリとして認められている堀江貴文という人でさえ,裁判,つまり法の下での決着や世間の善悪,そして世論の行方に視線が向かっているようでした。

野次馬根性で私が興味があるのは,まぁ知ることはできないでしょうが,本人(松本人志)がこの事件,また自分の女性蔑視の言動行動に対して,罪を感じているかどうか,そして感じているならばどれほどのものだろうか,ということです。

私自身,「罪」について時折考えたり,調べたりするのですが,結局分からないまま考えることを止めて今日に至っています。

先日,1月24日,アウシュヴィッツ収容所が解放された日ですが,私が住んでいる町の教会でのミサを含み,ドイツ全土で記念式典が開かれました。
奇しくも,パレスチナではこれまでにない悲劇が双方で続いています。
同時に,ドイツでは,大討論にはならないまでも,ドイツ人・ドイツ国・ドイツ民族にもホロコーストにおける「罪」はあるのか,という議論はいまだに見聞きします。

ユダヤ人団体の副理事も務めたことがあるジャーナリスト,フリートマンは,いつだったか「ドイツ人に罪があるとは思わないけれども,ホロコーストはとてもドイツ的だと言える」と語ったことがあります。
つまり,ホロコーストは,集合犯としてドイツ国民に団体責任や罪があるか否かがよく問われるのです。

罪を知らない私ながら,ハッとさせられたのは,ドイツ国民に団体責任があるか否かと問われ,きっぱりと「いいえ,ありません。ひとりひとり,個人個人が重要です。当時の収容所にいたナチスでさえ,心の中の罪と向かい合い,自分に何ができるか葛藤して実行していた人たちもいるのです。」

と,個人の罪の念が最も重要であることを説いた,ヴィクトール・フランクルです。

因みに,1960年代の中学か高校のころ,家の本棚にあった「夜と霧」を読み始めたらあまりにもリアルで数ページで読み続けることができなかったのを覚えています。
なんとその60年後の今,原題は「夜と霧」ではなく,「・・・それでも生きることにイエスと言う(... trotzdem Ja zum Leben sagen)」だったこと,また,彼は神父だと思っていたのが間違いだったことを知りました。
(日本語の)本は手に入らないので読めませんが,フランクル氏の話はYoutubeで聞いています。個人の罪について想いを馳せながら・・・

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