バーデン・バーデンに住み始めたら

最初はバーデン・バーデンの郊外,その後,市内に住むようになったけれども,知り合いの反応は普段(過去40年の引っ越しは30回以上)の転居と少し異なっていた。

「えっ!,バーデン・バーデン?,一儲けしたのか?,バーデン・バーデンって裕福層がたくさん住んでいる町だろう?」
「行ったことありますよ,スイスに行く途中に。静かで豊かな温泉町ですね」
など,一般的な意見と共に,こんなことも1-2回言われた。

「あ,バーデン・バーデンね,大嫌い。あんな気取った,鼻が高い町は。興味ないから行ったことはないけど。」

いずれにしても,ドイツ人,日本人に限らず,ほとんどの人たちに知られている町であることは確かなようだ。
ただ,ドイツ人ですら,町の規模はあまり知らないようで,結構大きな町だと思われている印象。

テレビの公開番組で,バーデン・バーデンの自動車のナンバープレートに関する質問が出されたとき,ほとんどの人たちが "BB" と答えていた。
まぁ,分からないでもないけど,アルファベット2文字は結構大きな都市でないと得られない。
ドイツの登録車両は,大都市が1文字,中都市が2文字,その他の小都市や自治体は3文字で始まる。アルファベットや番号を購入することもできるので,自由が利くけれども,都市や自治体を示す最初の文字および文字数は変わらない。
たとえば,B(ベルリン),F(フランクフルト),M(ミュンヘン),BN(ボン)WÜ(ヴュルツブルク)など。したがって人口5万人の小さな町バーデン・バーデンはBAD。
ただ,この最初のアルファベット付けも簡単ではなく,HH(ハンブルク),HB(ブレーメン)などがあります。
おそらく,Hはハノーファー,Bはベルリンに取られているからなのでしょうが,(苦しい)説明としては,ハンザ都市ハンブルク,ハンザ都市ブレーメン,ということになっています。

 

ブラームスとクララ・シューマン

「えっ!ブラームスハウス? ブラームスがバーデン・バーデンに居たの? クララ・シューマンも? それじゃぁ,まず見なきゃ。」
日本から身内がバーデン・バーデンまで足を運んでくれたときの第一声だった。

バーデン・バーデンという町が,有名無名のクラシック音楽家たちのみならず,ひいてはクラシック音楽ファンの心を惹きつけるのは,クラシック音楽に無知な僕でも何となく分かる。

散歩がてらブラームスハウスに行ったので説明文を書こうと思い,少し調べるとシューマンという名前が出てきた。そして,ロベルト・シューマン(1810-1856)はバーデン・バーデンを気に入っていたと書かれていたけれども,訪問したのは3回だけで滞在日数もわずか。初回は1829年7月5日と6日,翌年も8月5日と6日に大学の友人たちと共に遊びに来て,楽しい日々を過ごしたらしい。3回目は1851年7月23日,クララ・シューマン(1819-1896)と一緒にスイス旅行の途中に寄って丸一日を過ごしたと記されている。後のクララ・シューマンのデュッセルドルフからの転居を思えば,このバーデン・バーデンがそれぞれに強い印象を残した街であったことは間違いない。

ちょうどそのころ,19世紀初期からバーデン・バーデンはシックな避暑地としてヨーロッパで有名になりつつあった。ベルエポックやユーゲント様式に先駆けて,モダンで華麗な雰囲気があったのだろう。
フランスでプロテスタントへの迫害が始まり,国境を越えて逃げてきた多くのユグノーたちが気に入ってバーデン・バーデンに居住を構えたとも記されている。彼らによってフランス人好みの町に徐々に変わっていったのかもしれない。

訪問者の交流の場所は,その名も社交場(Conversationshaus)。玄関を入ると厳かな階段が中央にある,典型的なヨーロッパのクラシックな宴会場。室内音楽の演奏会にほどよい大きさのホール,(社交)ダンス場,カジノも入っている現クアハウス。欧州各地からやってくる多くの文化人や知識人たちが,昼間は町中の緑地の散歩または深い森へのトレッキング,陽が暮れると,それこそエトランジェとのConversationを楽しんだことがうかがえる。

ところで,ロベルト・シューマンとクララ・ヴィークがようやく結婚できたのは1840年。2人で協力した音楽制作を行う喜びの中の不安定な生活は,ロベルト・シューマンがデュッセルドルフ市の音楽監督という職を得て大きく変わる。1849年に家族と共にデュッセルドルフ市に転居。クララ・シューマンも伴奏者として働き,新たな音楽活動に期待を寄せたが,演奏家たちの規律の無さや努力不足に失望するロベルト・シューマン。なんとか仕事やツアーをこなしながらも7人目の子供の誕生,数回の引っ越し,ロベルト・シューマンの続く病気など,不安な年月が流れ,ついに音楽監督の業務を退くことを勧められる。そしてよく知られる,ライン川に身を投げる事件が発生。その後,ロベルト・シューマンの希望もあってボン郊外の精神医療施設に入院。見舞いを控えるように言われていたクララ・シューマンがロベルト・シューマンにようやく会えたのは1856年7月末,亡くなる2日前のことだった。わずか16年の波乱の結婚生活。そのとき身ごもっていたクララ・シューマンは8人目の子を産む。

子供たちは寄宿舎に送られたりして彼女の元を離れ,クララはロベルトの死後,2人の子供を連れて離婚した母親が住んでいるベルリンに引っ越すけれども,居心地はあまりよくなかったらしく,1862年にバーデン・バーデンに転居することを決心する。
バーデン・バーデンは,ロベルト・シューマンの名残ある町だったけれども,新たな居住地となるきっかけを作ったのは(おそらく)クララの人生で重要な3人目の男性。

ロベルト・シューマンが亡くなる3年前,クララ・シューマンは,父,そしてロベルトに続く,その3人目の男性に出会っている。ヨハネス・ブラームス(1833-1897)だ。
ブラームスはロベルト・シューマンを訪ね,尊敬の意を示すと共に自作の音楽作品の評価を請う。ロベルトもクララもブラームスの作品に感銘を受け,以来緊密な関係を結び,シューマン宅に住み込んだ時期もある。
時期にブラームスがクララに恋心を抱き始めていることは明らかになったが,ロベルトがどのような感情を抱いていたのかについては分からない。

いずれにしても,ヨハネス・ブラームスとクララ・シューマンの友情と愛情は取り交わされた手紙に記されているけれども,ロベルトが亡くなった1856年,2人はスイスに一緒に旅行に出かけ,そこで愛人としての関係は終えることを話し合っている。
しかし,2人の友情関係は一生続いたことは広く知られている。

ご存じのようにドイツの都市は2回の大戦でほぼ壊滅して,19世紀のドイツの建築物はほとんど残っていないので100年前の様子を想像することすら,それこそ大きな想像力が必要だ。シューマン夫妻が住んでいたデュッセルドルフも,旧市街の一角にほんのわずかな瓦礫が残っているだけなので,町の昔の面影はゼロに等しい。デュッセルドルフに限らないけれども,諸都市の戦前の様子を知りたい人は,ほとんどの町にある郷土博物館をぜひ訪れてほしい。

そういう意味で,バーデン・バーデンは幸運だった。すでに戦時中から,戦後はフランス軍管理の統括本部の拠点となることが決められていたので連合国は爆撃を行っていない。したがって,街並みはクララ・シューマンやブラームスをはじめとする多くの音楽家や文化人がいたころの1-2世紀前とあまり変わっていないので,当時の雰囲気は十分想像できるはずだ。

1862年にバーデン・バーデンに転居したクララ・シューマンは,友人の伝手で一軒家を購入(Hauptstraße 8番地)。10年間ここに住んでいる。欧州各地を廻る演奏旅行で多忙だったクララ・シューマンだったけれども,休みの日々や夏の休暇はいつも,(子供8人の内)7人の子供たちと一緒に過ごしたと記されている。当時は平屋だったようだけれども,その後人手にわたり増築されている。

筆者は最初のころは,ブラームスが現在ブラームスハウスとなっている賃貸アパートを見つけるまで度々滞在していたといわれるホテル・ベーレン(現在は老人ホーム)しか知らなかった。クララ・シューマンが住んでいたことも最近知った。

後にクララ・シューマンが購入した家を見たとき「アレッ?」と思った。目と鼻の先にホテル・ベーレンがあるのだ。ということは・・・,ブラームスがクララ・シューマンを追ってバーデン・バーデンに来たという記述はあったけれども,それだけでなく,彼女の家に最も近い宿をとったに違いない。その後,ブラームスはいつものような短期滞在ではなく,居住するつもりでアパートを探し始め,偶然にも近くに理想的な一軒家が見つかり,彼女にも森にも近いので幸福感に包まれたであろうことは十分察することができる。
「物件の1件目の内見だったけれども最高だよ。すぐに決めた。素晴らしく快適だ。丘の上で,山々も一望できるし,リヒテンタールからバーデンに行く道もすぐだ。」
ブラームスが友人に宛て手紙にはクララのことは書かれていないけれども,「クララの家へもすぐだ」が本当は最もうれしかったはずだ。

それ以前から,コンサートのツアー旅行で家にいることが少なく,結婚後もおそらく家族と一緒にいる短い時期も音楽中心で子供たちの面倒をみる時間が少なかったせいか「薄情な母親」というニックネームまで付けられていたクララ・シューマンだが,日記には子供たちと過ごす時間に恋焦がれていたことも書かれているので,バーデン・バーデンの庭付き小川付き一軒家で幸福な時を過ごしたことは間違いない。

また,母親失格,女性失格のようなレッテル貼りは,女性の役割は家事と育児というのが常識だった時代だから通用したとも云えるだろう。日本も男性社会だけれども,ドイツでは夫婦共働きが許されたのは1977年。それまでは,「女性は良妻賢母であるべし」という道徳は,ドイツ国民に共有されていた価値観だった。女性が働くことができるのは家事・育児に支障を起こすことがなく,夫の許可を得られた場合に限られ,それが法で定められていたので,19世紀の中旬ならば推して知るべしだろう。

そういう意味で,クララ・シューマンは現在では優れた音楽家というだけでなく,職業婦人としての人生を貫いた最初の女性解放者のひとりとして認められている。

さて,バーデン・バーデンの町から歩いてブラームスハウスに行く途中,クララ・シューマンの往年の住まいを通ってゆけば,当時の生活を思い浮かべられると共に,おそらくブラームスもクララがバーデン・バーデンにいるときは毎日のように歩いてきたであろう道を散策できる。
道と云っても,リヒテンターラー緑園内の歩道。往年のクララ・シューマン宅の近くには東屋もあり,中に人が座っている光景など見たこともないので,散歩の途中のちょうど良い休憩j所になるはずだ。

クララ・シューマンの家を知らないころ,近くを通るたびに,リヒテンターラー公園の脇を流れる小川沿いにある小さな家々に憧れた。後に数軒しかない恵まれた家の一軒がクララ・シューマの家であったことを知った。道路側から見ると変哲のない質素な平屋だけれども,裏に廻ると日本式庭園も羨むような静けさに包まれた住まいに一変する。小さな庭と前を流れるオース川と緑地まで独り占めなのだ。
黒い森から流れてくるオース川はバーデン・バーデンの町に入ると川幅は広がるけれども(それでも5メートルぐらい),この辺りはまだ幅2メートルほどの小川で水はいつも澄んでいる。

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毎年のように夏にやって来ていたブラームスもクララ・シューマン一家と共にバーデン・バーデン(リヒテンタール地区)の住民となった。現在ブラームスハウス(Maximilianstraße 85番地)として保存されている一軒家とクララの家との往復は,おそらく道路ではなくリヒテンタール修道院から緑地のみを通ったに違いない。

バーデン・バーデンの市街からは2キロ以上離れている。
一生,質素な暮らしをしていたといわれるブラームスだけに,華やかで贅沢な雰囲気のバーデン・バーデンの中心よりも,少し離れた森に近い辺りのほうが幸福だったのかもしれない。
自然が好きなブラームスは,毎日のように夜明け前から山の中へ歩いて行ったと記されている。

Conversationshaus(現クアハウス)で演奏するときは,自宅の庭のような小川の橋を渡り,前の公園を歩いてゆけば,道路を全く通ることなしに会場の行き来ができることになる。こんな環境に恵まれた人は世界広しといえども,クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスだけだろう。

 


ブラームスハウスとリヒテンターラー地区

 

旧バーデン・バーデン駅

列車のゴトンゴトンの音がゆっくりになり,町の中に入りそうな気配になったと思ったらまもなく停車したので着いたらしい。駅は出たけれども,どちらに行ったらいいのか分からない。中心街への方向の見当を付けてぶらぶら歩き始める。驚くような深い森の町の光景でもないので,感激もないまましばらく歩くと繁華街ではなく,広大な緑地が眼前に広がった。

有名な町らしいということだけで降り立った。町の知識は皆無なので,ただただ緑地をぐるぐる廻っただけ。歩きつかれて,また駅に戻り,次の列車に乗った。

なので,バーデン・バーデンといえば,駅から歩いた小川沿いの道と平らな広い緑地の記憶しかなかった。

また,パリからイタリアに行くのに,なぜバーデン・バーデンに立ち寄ったのかも覚えていない。おそらく南ドイツの楽器職人の町として知られるミッテンヴァルトに向かう途中,列車の時刻表にバーデン・バーデンが載っていただけのことだけだろう。ヒッチをしたり,列車に乗ったりの,予定も計画もない旅だったから。

その後,ドイツに住むようになり,バーデン・バーデンに写真家の方を迎えに行くことになったことがある。待ち合わせ場所のバーデン・バーデン駅を降りても記憶が蘇らない。不思議に思っていると,鉄道駅は街中から移され,列車はバーデン・バーデンの町には入らないようになったことを聞いて納得。

今では,車でバーデン・バーデンに行く人は,アウトバーンから市内に向かう道が一直線のことに気づくはずだ。この一直線が,1977年まで市内にあったバーデン・バーデン駅に続いていた線路跡。

線路があった1本の道の土地を利用できるようになってもそれほど大きな利点だとは思えないし,列車の騒音が住民に迷惑だったり,町の空気を汚していたことはあまり考えられない。

行き止まり式になっているバーデン・バーデン駅へは,町に入り込む形になるので,スイス・フランクフルト間を結ぶ主要線上でバーデン・バーデン駅に停車すると10~20分ほどのロス時間が出てしまう問題を解決したかったのだろう。

空気汚染ならば車のほうがひどいはずなのに,と思っていたら,バーデン・バーデンをただの通過点としてシュヴァルツヴァルト(黒い森)方面に通り抜ける交通量が多いことが問題になっているらしく,市内を抜ける2.5 kmのトンネルが1989年に建設され,2012年にはさらに伸びたので,バーデン・バーデン市内の交通量や騒音は大きく改善されることになった。

それにしても,市内にあった駅を移転させたもうひとつの理由は,「列車で来るのは貧乏人ぐらいだから,どうせ金も大して落とさないし・・」と勘ぐるのは,また貧乏人の僻みだろうか。

いずれにせよ,移転後,使い道が決まらぬまま長らく残されていた旧バーデン・バーデン駅(Alter Bahnhof)の駅舎は,1998年に建設された祝祭劇場(フェストシュピールハウス/Festspielhaus)の玄関ホールとして新たに生まれ変わった。なので,往年の列車の切符売り場でコンサートなどの入場券を買うという,ノスタルジーと面白さを同時に味わえるようになった。もちろん,鉄道駅には欠かせない,壁面の大きな時計はそのまま時を刻み続けている。

因みにこの祝祭劇場は,ドイツ最大且つ音響もヨーロッパでトップクラスという評判だけれども,ドイツ最大という感じも超優れた音響という感じもはっきり言って抱かない。また,モダンな建築様式なので東京にあっても不思議ではないようなコンサートホールだ。

しかし,これは単に僕のような素人の意見であって,ときどき見聞きするフェストシュピールハウスの評価は,メディアからもプロの音楽家からも極めて高い。

オペラ,クラッシック音楽,舞踏,演劇など,ヨーロッパで鑑賞するならば,イタリアやフランスに数世紀前からあるような厳かな建築物,またはアールデコやユーゲント様式の,天井桟敷付きのホールの中で年季のある木と高級布に包まれた座席に埋まったほうが遥かに素晴らしい夢の時間を過ごせる,と個人的に思っただけに過ぎない。

そういう意味では,バーデン・バーデン市内のクアハウスの隣りにある,まさに劇場が名称になっているテアターは,こじんまりした厳かな古い建築物。

もし,滞在中にここで何か催し物があったらお奨めだ。

バーデン・バーデンの足跡

現在のバーデン・バーデンがある谷間の辺りに一体いつごろから人が住んでいたのか分かりません。新石器時代まで遡れることは,新城の付近で発見されたわずかの痕跡から察することはできるようですが,集落といえるほどのものではなかったようです。

紀元前1200年ごろの埋葬跡が発見されたことで居住は認められましたが,信頼性が高いのは紀元前500年ごろのケルト人の痕跡。

バーデン・バーデン市内を流れるオース川の名称にもなっている ”Oos“ という語は,ケルト語で「輝く水」を意味する „Ausava“ から来ているものと思われます。ただ,ケルト人が集落としてこの地に居住していたのかについては定かではありません。

それで,はっきりと分かっている,ライン河を渡ってガリアからやって来たローマ人たちの時期からバーデン・バーデンの歴史が始まった,というのが一般的な認識になっているわけです。
ただ,紀元20~50年ごろの陶器が数多く発見されていますが,それらがローマ人によって使用されていたものなのかについては専門家の意見が分かれています。

ローマ人の集落が決定的になったのは紀元75年。ウェスパシアヌス皇帝の時代を示す石碑がいくつも残っているからです。ローマ軍が滞在していたかについてはまた専門家の意見が分かれていますが,義勇兵の部隊がいたことは実証されています。
軍の拠点ではなく,温泉が出るということで贅沢な建造を行ったと察せられます。
„Aquae“ と呼ばれた町は2世紀の末,華やかな時代を迎え,紀元197年にローマ帝国で帝位継承したカラカラ帝の記念碑が建てられています。
カラカラ帝もバーデン・バーデンを訪問したとも言われていますが,実証はされていません。

Information

Joomla 4 に変わって間もないのに Joomla 5 が出ました。不安ながらも「テストも兼ねて」と思って更新したら,やはり不具合が出ました。

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