バーデン・バーデン

 

都市ともいえない,ドイツ的ともいえない,温泉の匂いに包まれた典型的な湯治の町ともいえない,とても特異なヨーロッパの町,バーデン・バーデン。

ローマ時代からの温泉処として2千年近い歴史,保養地としての洗練された魅力,国王に愛された風呂,フランス風の優雅さにあふれる夏の休暇地,20世紀のベルエポックの中心地,育まれた自然の恵み,華麗なカジノ,世界の著名な作家や詩人に大きな夢と想像力を与えてきた黒い森地方の北端にある小さな町の尽きない魅惑,などなど,往年の貴族専用のリゾートだけど,時代は変わったからあなたたちのような凡人もいらして結構ですよ,という風にも受け取れる。
宣伝用・観光用のPR用語だとしても,町を挙げて,上品さと気品に満ちたイメージ作りに成功した結果,メディアのイベント会場や世界的な会合の場としてアジェンダも埋まっている。

じゃぁ,温泉はもとより,高級処やファッションや金にも全く縁がない貧乏旅行者は場違いなのか,といえば,そんなことはない。
自然はどこに行っても無料だから。

目を閉じて,ローマ人がやって来た頃の時代を想像してみると,この辺りは何の変哲もない,大して魅力も特徴もない一帯であったであろうことは分かると思う。
谷の町の短所はと言えば,陽が当たる時間がやや短い。つまり,朝日はやや遅く昇り,夕陽は早々と隠れてしまう。

それでも利点があったのか,それともすでに高度な入浴文化を持っていたローマ人たちだから,ここで湧泉を発見して大喜びだったのか,現在のフランスのアルザス地方にいたローマ人がこの一帯に住んでいたケルト人を追い出した。
ウェスパシアヌス皇帝の時代の紀元69-79年と記されている。
彼らが名づけた "Aquae Aureliae"(浴場,Bäder の意)が,正式な町の名称 "Baden-Baden" になったのは1931年。
しかし,湧泉を利用してローマ浴場が建設された町は200年も経たない内にアレマン人(ゲルマン人)に襲われてしまう。

quelle 1ゲルマン人にとって温泉なんて何の魅力もない。町も環境も気に入らなかったようで,ローマ人たちが作った小さな温泉地を壊滅させると去って行った。
そして,数百年もの間,再びほとんど住民のいない,寂れた谷に戻ってしまった。

ヨーロッパのほとんどの都市は,地理的な利便性を持った大きな川の河畔に位置することが多いので,町を少し廻るとなぜ発展してきたか,すぐに納得する。でも,バーデン・バーデンではわからない,と思う。

現代のバーデン・バーデン
初めて訪れる人は,脚が向くままに歩くと,町が小さいわりに,ど真ん中に大木が並ぶ広い緑地の景観に驚くかもしれない。
後にリヒンテンターラー・アレーと名づけられる緑地だけれども,整い始めたのは19世紀。

でも,その昔,丘とも呼べない東西の坂道の間にぽっかりと空いている空地を流れる小川沿いは,子供たちが遊んだり,家族がときおり食べ物を持ち寄ってひとときを過ごせる,結構心地良い一帯であったことは何となく想像できる。

町からは見えないけれども,西側の丘の向こう側はフランス。夕暮れ時に丘を上がり,フランスの地平線に太陽がゆっくりと沈んでゆく光景を満喫してもいいかもしれない。

バーデン・バーデンの夏と賭博者

ロシアの裕福層がヨーロッパの各地の一等地で休暇を過ごしていたという記述を目にすることは多いけれども,ロシア人に限らず東欧からソ連や中国までの共産圏の人たちをヨーロッパで見ることは長らくなかった。

鉄のカーテンとはよく言ったもので,戦争は起こっていないのに冷戦という言葉が示すように日本を含む自由圏の国民のパスポートが通用するのは社会主義共産主義を除いた世界のような感じだった。

それがソ連の崩壊を境に一気に変わる。ロシアの人たちにとって西ヨーロッパは物価が高いから旅行などで訪れる人は少ないだろうと考えていたのは,大きな間違いだった。どどっと,それもスイスのサンモーリッツや南仏コートダジュールの高級リゾートなどにロシア人が大勢押し寄せた。ヨーロッパの裕福層よりもワンレベル上の金使いの様相だったから,ロシアの金持ちは只者ではない。

一方では日本から南米に移住した人たちのように,新天地を求めて世界に出たロシア人も多かったに違いない。考えてみれば当然だけれども,アメリカにもロシア人のコミュニティーがあるんだなということを知ったのは,映画「ディアハンター」だった。

ru kirche 3このバーデン・バーデンも,休暇先というだけではなく,不動産がロシア人にどんどん買われていった。旧ソ連のシュワルナゼ外務大臣もバーデン・バーデンに邸宅を購入したらしいけれども,その後どうなったのだろう。
どうやら,西ヨーロッパにはロシア帝国の時代に繋がりが合った多くの都市があり,そのコネを頼って百年以上経った今,新たにロシア人がそれらの都市に行くようだ。
ロシア皇帝もたびたび訪れていたバーデン・バーデン。黄金の玉ねぎ型の屋根がまぶしいロシア正教の教会は,教会というよりも礼拝堂と呼んだようが良いような,狭くて質素なホールだけだけれども,ロシア人住民たちにとっては郷土を感じる憩いの場だろう。

カラカラ浴場裏に続く公園にドストエフスキーが裸足で立っている銅像がある。

なぜ裸足で,というのはドストエフスキーの読者ならご存知だろう。
知名度の高い文豪とはいえ,もともと裕福でもなかったドストエフスキーは一文無しになり,愛人にも逃げられたイメージで作られた像であることは明らか。

1863年に初めてバーデン・バーデンを訪れたドストエフスキー。カジノを見つけ,すぐに気に入ったらしい。「ここでは1万フランを稼いだ後も,まだ楽しめる」
しかし,一緒にバーデン・バーデンに来た愛人のポリーナ・スースロワにも愛想をつかされて去られ,結局持ち金が底をつきロシアに帰る。

そこで出版社に頼み込んで,金を稼ぐために書いたのが「賭博者」。ところがなんと,この小説の清書を行った若い速記タイピストのアンナ・グリゴーリエヴナ・スニートキナと共に1867年,再びバーデン・バーデンにやって来る。
新婚旅行として,また債権者からの逃避旅行として。

現在,ドストエフスキーハウスとなっているベーダー通り2番地(Bäderstraße 2)の,当時は屋根の低い2階建てだった質素なアパートに滞在する2人。ドストエフスキーは再びカジノに入り浸りになり,最終的にまた大損。
逃げるようにスイス,イタリアへ向かう2人。ドストエフスキーはようやく心を入れ替えたようで,家族のためにも責任をとることを決心し,「白痴」「罪と罰」を完成。バーデン・バーデンなくしてドストエフスキーの傑作は生まれなかったと考えられないこともない。

カジノまで歩いて数分。病的なギャンブル依存症だったドストエフスキー時代の街の雰囲気はないので想像を巡らすしかない。

「私はすべてを失った。すべてを! まさに全てを! おお、私の天使よ、悲しまないで。」

 

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Joomla 4 に変わって間もないのに Joomla 5 が出ました。不安ながらも「テストも兼ねて」と思って更新したら,やはり不具合が出ました。

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