そもそも健常者が速く上がるための装置ではない! エスカレーターの片側を歩く人はブロックしていい

なんとまぁ,お怒りの記事だけれども,東京をはじめとする日本の都市の,どこに行っても人間があふれている光景を思い出した。


1971年,初めてパリに着いたとき,「あぁ,静かだなぁ,ゆったりしてるなぁ,人の混雑もない心地良さ」に心を洗われる思いだった。同じ宿に宿泊していたカナダ人と話すと,「えっ,嘘だろう!こんなに騒々しく,人が多い町は初めてで,びっくりしてるよ」と返された。

パリの街は,エスカレーター自体が少なく,地下鉄もほとんど階段のみ。たまにエスカレーターがあっても片側を空ける光景などを目にすることはなかった。しかし,同時期に海峡を渡っただけで全く別の体験をすることになった。ロンドンの地下鉄は深く長いこともあるけれども,見事にすべての人が片側に寄っている。それも整然と,静かに。木製の古めかしいパリのメトロにも愛着を感じたけれども,半円錐状のロンドンのチューブやゴム製の球状の吊り輪なども斬新だった。英国では,とにかくどこに行っても「待つ」という記憶が強く残っている。そして,英国人の第一印象は「どこでも並んで整然と静かに待つ」行儀の良さだった。並んでいる人たちの公平さを保つために,太い縄を張って最初は一列に集め,その後それぞれの窓口に分かれる。考えてみると自然に横入りも防ぐ簡単な方法なのだけれども,少なくともドイツでもフランスでも見たことはない。ドイツ,フランスでは横入りを度々経験したし,なぜかいつも隣の窓口のほうが早く進むような気がした。
だから,待つエキスパートの英国人からは,エスカレーターでも「並んで整然と待っている」感じを抱いたのだ。

東京に戻ると,大きな駅の構内では,よくもこんなに多くの人たちが整然と流れているなと感心しつつ,逆にこの流れに同乗しないと突き飛ばされそうで,外国人は大変だろうと心配した。ぼくのような田舎者にもキツイ。しかしエスカレーターに関してはロンドンとは大違いで,バラバラで雑だった。1980年ごろの話だ。その後,日本も大都市では欧米に追い付き(?),立ち止まる側と歩く側が分かれるのが普通になったらしいけれども,スムースな人の流れの解決にはならず,逆に問題を引き起こしているらしい。パリも80年代には変わっていた。郊外都市とを結ぶ東西南北路線が延び,駅も近代的に改築され,エスカレーターを備えた駅が増えたこともあるけれども,立つ側と歩く側が,ロンドンのように完全ではないにしろ,分かれ始めていた。ドイツでは,国外都市の滞在経験者が片側空けの慣習を望んでも妨げられることが度々だ。それでも,不平の声が聞こえないのは,やはり「混む」ことが滅多にないからだろうと思う。

ぼくは度々思う。人間が健全に住める町の大きさには限度というものがあるのではないか。特に人間の混雑度は一定の密度を超えると,いくらシステムを整えても,不安を感じる人たちが増え,その影響が至るところに起こり始めるのではないか。
1970年前後のわずかの間しか東京は知らないけれども,それでも,こんなに混んだ電車のなかで,急に叫び声を上げたり,気が狂ったようにナイフを振り回す人が出て来て当たり前,出て来ないことが逆に不思議に思えた。
北京や上海など中国の都市は知らないけれども,東京,パリ,ロンドン,ニューヨーク,マドリード,ミラノ,ローマ,イスタンブール,モスクワ,西ベルリンなど,大都市を比較しても,東京の主要駅の混雑具合と満員電車の密度は度を越し,世界でも突出している。にもかかわらず,大きな非難や暴動などが起こらないのは日本だけではなかろうか。

1990年代だったか,一時帰国した折,義妹との話の中で「キレル」という言葉を初めて聞いた。意味を問いただす必要もなく,話の内容からすんなりと理解できた。彼女の言うキレルは「私もキレてしまいました」と,やや恥じ入るような感じが入っていたのだけれども,日本人はみんなヤクザだと思っているぼくにとっては,実にぴったりとした言葉を得た気がした。

誤解している人が多いだろうけれども,欧米人は喧嘩腰の非常に険悪な状況になっても手は出さない。自分の意見を主張する人が多いので強い言い合いは日常茶飯事だし,何かのきっかけで街中で言い争いが起きることもある。でも手が出ることはほぼない。唾を飛ばすほど顔を近づけて怒鳴っても手は出ないのだ。日本人の場合は,なんとか相手を理解しようとする静かな内的な努力がしばらく続き,いつか収まるか諦めるかで終了することがほとんどだけれども,そうならないこともある。そのとき,日本人はキレ,手を出す。
つまり,堪忍袋の緒が切れた爆発やネズミが猫を噛むような行動が起こるのも日本的だと思う。

だから,新宿駅や渋谷などでは毎日数人程度のキレた人が騒いでも不思議ではないという印象を持っていたのだけれども,50年前のぼくの予感は幸い当たらなかったのかもしれない。

もちろん暴力はどこの社会でも存在し,ヨーロッパ諸国のカップルや家庭における暴力は大問題に違いないけれども,知り合い程度の関係の人や他人は別だ。
因みに,というかついでにドイツのDVについて述べると,ドイツでは年間に130人前後(3日に1人の割合)の女性が配偶者・パートナー・旧パートナーに殺害され,4カップルの1人が性的暴力を経験している。

さて,エスカレーターの話に戻すと,階段,エレベーター,車両の乗降口,エスカレーターなど,人が移動する媒体の使用方法については,慣習にせよ,法的規制にせよ,決まった定めなど,おそらく世界のどこにも存在しないと思う。あまりの混雑によって事故などが起こる恐れがあり,なんらかの措置が必要になっても,「文化生活(civilization/Zivilisation)」に沿った解決法となるので,国によって異なるのは当然だろう。

このZivilisationという言葉は,長い歴史のなかで培われ,国民の価値観を支配するようになった多種多様な要素が詰まった微妙な意味を持っている。
似て非なる人間がグループ化すると,国民性などという言葉で表現されることが多いと思うけれども,その国民性を作っているのも,おそらくZivilisationだろう。
だろうと云うのは,ぼくも知らないから。大人,それも50歳になるまで聞いたことも考えたこともなかった。ぼくにとってZivilisationの和訳は文明で,その文明は,文化の対語としての文明だったから,精神面の文化に対する物質・物理的な進歩が文明だとずっと思い込んでいた。
それを考えさせられたのは亡きヘルムート・シュミット前ドイツ首相。テレビのトークショーで,ドイツ国内における外国人や移民との統合について語るとき,いつも「ツィヴィリザシオンだよ,ツィヴィリザシオン。異なったツィヴィリザシオンで生きて来た人たちとの共生の問題はねぇ,そのツィヴィリザシオンが・・」とやたら云うのでドイツ百科事典を改めて開いてみると,「元々は,保守的な一般市民の良い習慣や礼儀正しい中流階級の生き方のみを意味していたけれども,18世紀以降,文化の対語として使用されるようになった」と記されている。
それでは,日本語でも「文明」という語には,「善良な市民の生き方を形作っている精神的な側面」の意味はあるのだろうか。そしてそのような使い方がなされているのだろうか。
ドイツ語の場合,「ツィヴィリザシオン」の意味をそのように捉え始めたら,少し理解できるようになった。亡きシュミット氏に感謝だ。

いずれにしても,このツィヴィリザシオンは世界の国や民族の数と同じぐらい多く,似ていながら微妙な違いもあることは間違いない。「おもてなし」は日本の特許のように思っている人たちもいるかもしれないけれども,ホスピタリティーごころは世界の多くの人たちが持ち合わせているし,その形がこのツィヴィリザシオンによって微妙に異なるだけだ。東欧や南欧の人たちは気分次第で知り合いの家を気楽に訪問し,食事時なら急でも招待されることは当たり前だというけれども,これなどもツィヴィリザシオンの違いだろう。ぼくの勝手な解釈かもしれないけれど・・・。ドイツでは友人でも訪問は必ず事前に連絡して諒解を伺い,食事時間は避けるのが「当然の」礼儀になっているので,他人行儀と感じている外国人も多い。馴れ馴れしさを避ける北欧人はもっと別の慣習があるかもしれない。
つまり,もとをただせば,世界のどの社会にもある「他人に気を遣う」という気持ちは同じでも,慣習や行動は微妙に異なるし,国民によって異なる「当たり前」なことは山ほどある。

説明が長くなったけれども,規制を嫌がるフランス人,溢れすぎた「禁止」の乱用を抑えたいドイツ,立ち側・歩き側がすでに定着している英国など,エスカレーターの乗り方などに最適な決め事などなく,問題が出てきたらツィヴィリザシオンに沿って,それぞれの社会が解決を図るというのが普通だろう。
繰り返しになるけれども,混雑エスカレーターにおける最大の課題は,満員電車と同じく,いかにしたらキレル人が出ないような状況を作ることができるか,だと思う。
そして,キレル,正常な感情が壊れてしまう大きな要因は,限度を超えた人間の密度だと,いまだに思う。

 

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